2016年のつぶやき

「人生は素晴しい!」   2016年12月

「まさかの」   2016年11月-2

「風に吹かれて」   2016年11月

 「利口じゃやらない」   2016年10月

「読む人のいないラブレター」 2016年9月

 「悩み多き」      2016年8月-2

 「原点」        2016年8月

「夏、肯定感」     2016年7月

「片想い」       2016年6月

「途中下車などせずに」 2016年5月

「目をつぶる遊び」    2016年4月

「愛しなおす」      2016年3月

「ブルブルッ」      2016年2月

ただただ・・・」       2016年1月

 

 

 

「人生は素晴しい!」2016.12


「今、穂高のど真ん中にいます。

今回はヤられるかもしれん・・・と。」

我が映画創りの雪組・星組のカメラマン、穂高岳山荘の小屋番宮田八郎から、冬山、穂高発のドキッとする携帯メールが、「牛小屋」と呼んでいる編集室に届いた。

新作『いのちのかたち −画家・絵本作家 いせひでこ−』や『傍(かたわら)〜311日からの旅〜』等、

この数年取り組んできた自作の雪や星のカットの多くは、“ハッちゃん”こと宮田八郎の力を借りている。

宝塚の、雪組や星組ほど華麗ではないかもしれないが、我等が“ハッちゃん”の撮るカットはキリリと美しい。

「いせさんの映画は、どれも自然描写が豊かで映像も音も美しいですね・・・」と誉められることがけっこう多い。それは決して私の手柄ではなく、このところずっとコンビを組んでいるカメラマン石倉隆二を始めとするフリーのカメラマン諸氏や、ヒポコミュニケーションズの録音スタッフの美意識が成せる技なのだ。

 

極寒の穂高のど真ん中で、生粋の山男が携帯電話を握りしめ、弱音めいたメールを送って来る。

「自分で、そうしようと冬の山に独りで来たのに、今は吼える風の音に脅え、無事に帰れるかどうか不安でしょうがないのです。でも、やらないわけにはいかない・・・だったのです。又、伊勢さんと呑みたい。」

 

何と返信していいかわからず、

「ブレーキがぶっ壊れた機関車は誰にも止められない。困ったもんだ・・・。♪俺は待ってるぜ♪」と一見呑気な返信をした。

そう、やらないわけにはいかないのだ・・・

ブレーキがぶっ壊れた機関車を自認し、ドキュメンタリーを創り続けるヘボカントク(私のこと)から独り山に佇む同志への、連帯のメッセージだ。

 

同じ日に、姉(映画『奈緒ちゃん』のお母さん)からも我が携帯に長いメールが届いた。

姉の障がいのある長女、奈緒ちゃんと家族の記録をずっと撮り続けて、気がついたら36年の歳月が流れようとしている。その長いながい記録を編集中の私のところへ姉から、若い頃好きだったピアノと歌を、もう一度やってみる気になった、古いピアノを調律したいと連絡があった。この世に生まれ出てから今まで、世話に成りっぱなしだった弟として、ささやかなカンパを申し出たことへのお礼のメールだ。

 

「やはり、出逢いと愛・・・ですかね〜。

ピアノさんは54年のピアノ人生を、ずっと側にいて見守り励まし、お金を生み出し、何より悲しい時辛い時、良い音を出して、癒してくれたかけがえのない存在で、唯一の私の財産です。沢山の出逢いと愛を生み出してくれたなぁ、と感謝しているんです。

古いポンコツだけど、手放さなくて良かった。」

 

1225日(日)、クリスマスのその日、調律したばかりのピアノに久し振りに触れ、その美しい音色に上機嫌になった姉は「ジャズピアニストに成りたい・・・」と、突拍子のない夢を語り、奈緒ちゃんとクリスマスソングをデュエット、今も記録を続けるいせ組のスタッフみんなに聴かせてくれた。

そこへ、冬の穂高から無事下山して駆けつけた“ハッちゃん”も、更なる新作『奈緒ちゃん〜36年の記録〜』の奈緒ちゃん一家の夜空に輝く星を撮影するために合流、みんなニコニコ「Merry Xmas!!」と大声を上げた。

 

誰かが言っていた

「人生は素晴しい!」と。

時には手放しで、その言葉を叫んでみたくなるのだ。

 

 

「まさかの」2016.11-2

 

まさかの雪が降った。

数日前には、再び福島が震源地の、まさかの地震と津波があった。

 

先週末から、新作『いのちのかたち −画家・絵本作家 いせひでこ−』の劇場上映が、東京・名古屋で始まった。

初日の東京は満席・・・このまま行けば今回こそは映画館の人に悦んでもらえるかな、と気を良くして、次の日は名古屋の劇場に出向き舞台挨拶した。名古屋の映画館も、お客さんの半分以上の方々がパンフレットを買い求めてくれたことで、作品が受け止められているという手応えを強く感じて帰って来た。

これはまさかの大ヒットか?

 

しかし・・・映画の神様は、それほど甘くはない。

その後、東京・名古屋ともに客足がイマイチ伸びず、気の弱いヘボカントク(私)は、映画館に顔を出しながら劇場スタッフと目を合わせることが出来ずにいる。

「う〜ん」ずっと、こんな人生だ。

 

映画館で毎日配っているアンケート(感想)の反応も、スコブルいい。観た人の反応は、いつもに増していい。

でも、お客さんが来なければ話しにならないもんね。

どうしたものか、と思いを巡らせているところへ一枚の葉書が届いた。もう二十年以上前に福島・南相馬で、自作『奈緒ちゃん』を自主上映してくれた方からだった。

20113月に埼玉へ避難し故郷へ戻れないでいる。

 

〜過日は『いのちのかたち』の御案内を頂き、有難うございました。この五年数ヶ月の間に私の生活にもいろいろ変化がありました。現在、埼玉での生活にも慣れ、こちらで住居を探しています。今回の作品は心理的に観させて頂くのが厳しく感じますので、誠に申し訳ありませんが欠席させて下さい。〜

と言う内容で、私が全国の友人・知人に送った『いのちのかたち』上映のお知らせへの、丁重なお断りだった。絵ハガキの表には、山と川と里の絵に添えて

「うさぎ追いしかの山 こぶな釣りしかの川」

とあり、更に加えて・・・むかしのことよ・・・

と書かれていた。

 

震災、津波、原発事故後の故郷の光景を見ることが辛い。

まだ直視することが出来ない、と思うのは、福島で生まれ育った普通の人の、正常な感覚だろう。

見たくない、という人に向かって勝手な想い入れで創った映画を、観てほしい、と言いつのる自分の無神経さを思い知らされる。下品な奴だと思う。

 

けれども、創らないわけにはいかなかったのだ。

映画の中でひでこさんは、クロマツの倒木を描いた作品を前に呟く。

「そう!

言葉もなく絵もなく記録もなく、見もせず、通り過ぎて、通り過ぎたことさえ自分が気がつかず・・・というくり返しだったら、一人の人にも伝えることはできないってことなんですよね。

何百人、何千人に伝えようなんては思ってない。一人でも・・・って思ったら、やっぱりどこかで足を止めるんだなって。それをやってきたんだなって。」

 

主人公のひでこさんが描かないわけにいかなかったように、私も又、創らないわけにはいかなかったのだ。

 

まだまだ始まったばかり。

観ないわけにはいかない、と思う、たった一人と出逢うためにこそ、めげずに、こりずに、あせらずに

『いのちのかたち』の上映を続けよう。

応援よろしく。

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20161119日(土)〜122日(金)  

 東京(新宿)・K’s cinema(ケイズシネマ)/1020分より

     トークゲスト

1127日(日)松本巧さん(「1000人のチェロ」実行委員会代表)      

 問合せ:03-3352-2471K’s cinema

 

20161119日(土)〜122日(金)  

 愛知(名古屋)・名演小劇場

 1119日(土)〜1125日(金)1030分より/1705分より

 1126日(土)〜122日(金)上映時間未定         

 問合せ:052-931-1701(名演小劇場)

 

20161126日(土)〜129日(金)  

 ※1126日(土)伊勢真一監督のトークあり

 大阪・シアターセブン

 1126日(土)〜122日(金)1230分より

 123日(土)〜9日(金)1020分より  

 問合せ:06-4862-7733(シアターセブン)

 

2017121日(土)〜23日(金)  

 ※121日(土)伊勢真一監督のトークあり

 神奈川(横浜)・シネマ・ジャック&ベティ/上映時間未定  

 問合せ:045-243-9800(シネマ・ジャック&ベティ)

 

2017128日(土)〜23日(金)  

 ※129日(日)伊勢真一監督のトークあり

 三重・伊勢進富座/上映時間未定  

 問合せ:0596-28-2875(伊勢進富座)

 

厚木・アミューあつぎ映画.comシネマ静岡シネ・ギャラリー/金沢・シネモンド/京都・京都シネマ/広島・横川シネマ/浜松・シネマイーラ/新潟・シネ・ウインド/福島・フォーラム福島 and more・・・

 

「風に吹かれて」2016.11

 

あこがれのボブディランがノーベル文学賞を受賞し、これまで彼が手がけたレコード、CDのアルバムジャケットを並べた一面広告が新聞に載った。

1962年、20才の頃から50年以上かけて50枚に及ぶ彼が積み重ねて来た音楽の足跡に感動し、共感もした。

この人も創らないわけにはいかなかったんだな、と。

 

ここのところ毎年のように映画を完成させている私に「ちょっと乱作気味なんじゃないの?」とか

「生き急いでるみたい・・・」とか言う奴もいる。

音楽でも、絵でも、文学でも、映画でも、寡作なことを美化し評価する向きもあるが、私はそうは思わない。

どんどん創ればいいと思う。

野球選手は打席に立ってナンボだ。

映画カントクも同じ、創ってナンボさ。

ディランの「多作」と私の「乱作」を一緒にしてはいけないと思うけど、創らないわけにはいかない腹の底から沸き上がる気持ちに、変わりはないと思う。

 

新作『いのちのかたち −画家・絵本作家 いせひでこ−』も、そんな気持ちで創った作品だ。

『いのちのかたち』の元をたどると、その前には『傍(かたわら)〜311日からの旅〜』があり、その前には『風のかたち −小児がんと仲間たちの10年−』があり、その前には『奈緒ちゃん』がある。それら一本一本の映画が停車駅だとすれば、私は旅人のようなものか。

わたしは「とほくまでゆく」キップを握りしめ、映画という列車に乗って、ただただ旅をしているのだ。

  ・・ちょっとロマンチック過ぎるかな?

 

気がついたら列車に乗っていて、気がついたら走り始めていて、気がついたら停車駅に止まっている。

今は『いのちのかたち』という停車駅で「一体自分はどこに行くつもりなんだ・・・」と途方にくれている。

前の停車駅『傍(かたわら)』での私の呟き。

20113月からおよそ1年間、東日本大震災の被災地・宮城県亘理町吉田浜と、福島県飯舘村を毎月11日の月命日の前後に通い続けて記録した映画『傍(かたわら)〜311日からの旅〜』は、文字通りお墓参りのような映画です。

映画は「情報」というよりも「祈り」のようなものだ、と時々私は思います。祭壇におかれた遺影のように、花のように、映像は記憶のカタチとしてずっと愛する人々のすぐそばに寄り添い、一緒に居る。人々の「祈り」を受け止め、「いのち」を見守り、共に生きるのだ。

ただ「祈り」ただただ「映画を創る」。>

 

(いた)むという思いが『傍(かたわら)』から『いのちのかたち』へと引き継がれていく。

いせひでこさんが出逢った吉田浜の倒木に導かれるようにして、一本の映画が誕生した。

 

映画を観たある人が、この映画に「静かな狂気」を感じると感想を寄せてくれた。創ることは狂気無しにはあり得ないかもしれない。そして狂気は本来、静かなものなのにちがいない。

創らないわけにはいかない、という狂気のキップを握りしめ旅は続く。とほくまでゆくんだ・・・

 

『いのちのかたち』の停車駅に降り立って、私が目にし、耳にした人生のワンシーンを感じてほしい。

答えの無い映画だけど、答えなんかあってたまるか!

「答えは風に吹かれているだけさ」とディランのダミ声が聴こえてくる。

 

The answer, my friend, is blowin' in the wind

   The answer is blowin' in the wind

             (Bob  Dylan

 

「利口じゃやらない」2016.10

 

秋。

相変わらず週末は巡業が多い。

毎週、旅が出来ていいですねと言われるけど・・・

楽しいばかりじゃない。辛いばかりでもないけど。

人生とおんなじサ。

  

10月初めの週末は岩手・一関へ行って来た。

『妻の病 ーレビー小体型認知症ー』を二週間上映してくれている一関シネプラザの入り口には、大ヒット中のアニメ『君の名は。』と、我が『妻の病』のポスターがセットで貼られていた。

今話題の恋愛映画二本立て、ということか?

東北で僅かに残る単館映画館の支配人・松本さんは

「私等はもう絶滅危惧種のようなもんですから」とニガ笑いしながら「カントク!映画は馬鹿じゃ出来ないけど利口な奴はやらないよね」と言い放った。

 

・・・と言うわけで、どう見ても利口でない私は、又してもアトサキ考えずに新作を創ってしまった。何のメドもなく、ほとんど衝動にかられてね。

『いのちのかたち ー画家・絵本作家 いせひでこー』

映画のキャッチフレーズは

まるで絵本のようなドキュメンタリー・・・だ。

ドキュメンタリーのような絵本を描き続けてきた友人、いせひでこさんへの返信のように、絵本のようなドキュメンタリーを創った。

舞台は宮城県亘理町・吉田浜が中心、自作『傍(かたわら)〜311日からの旅〜』で一年間通い詰めた場所を再訪し、荒野となったその地に遺された一本のクロマツの倒木をひでこさんが描き続ける姿を中心に、およそ三年間かけて迫った映画だ。

 

東日本大震災の被災地を描いたドキュメンタリー、と言えば『傍(かたわら)』の続篇とも言えるし、ひでこさんとの出逢いが生んだ映画、と言えばチラシやポスターに絵を使わせてもらった映画『風のかたち ー小児がんと仲間たちの10年ー』のつながりとも言える。

画家を描いたドキュメント、と言えば、洋画家・小堀四郎さん夫妻を迫った『信・望・愛 ー孤高の洋画家ー小堀四郎』に近いし、前作『ゆめのほとり ー認知症グループホーム福寿荘ー』のお年寄り達の魅力的な表情とクロマツの佇まいはとても似ているので、その続きのようにも思える。

実は、一本の長い長い映画を創り続けているのかもしれない。全てが続篇と言えば続篇のようなものだ。

 

「映画は観客と出会い、はじめて映画になる・・・」

その出会いの旅がこれから始まる。

私の場合、映画を作るだけでなく観てもらうための仕事、宣伝・配給も自力でやっているので、気合を入れ直して映画を観てもらうための活動に取り組まなければならない。チラシやポスター・パンフレットを創り、メディアの方々に観てもらい紹介してもらうための試写会もやる。営業活動もカントク自ら先頭に立ってやるのだ。

黙っていてはお客さんは来てくれない。

お客さんが来てくれなくては、自主製作で創った製作費の回収が出来ない。そうなったら、もうその次の作品を創ることはできなくなり、アウト。映画創りのフィールドから退場を余儀なくされる。必死なのだ。

呑気そうに見えるけど、大変なんだから。

 

1119日(土)から東京・新宿K’sシネマと名古屋・名演小劇場で、1126日(土)から大阪・十三シアターセブンで、公開が始まりその後、横浜、伊勢、静岡、金沢、京都などのミニシアターで上映が続く。

いせフィルムの映画創りの命綱である、各地での自主上映にも積極的に取り組む心づもりだ。

お力添え、よろしくお願いします。

 

 

 

 

「読む人のいないラブレター」2016.9

 

私の自主製作での処女作は「奈緒ちゃん」、障がいのある姉の長女・奈緒ちゃんの9才から20才までの家族の日々を描いた、12年間のドキュメンタリーだ。

 

撮影は瀬川順一さん。記録映画の編集者だった父、伊勢長之助の親友。劇映画もドキュメンタリーも撮る、映画の世界の大先輩だった。

その頃すでに、テレビドキュメンタリーなどで一本立ちし「かんとく」と成っていた私は、この仕事で徹底して瀬川さんにしごかれ、映画創り、ドキュメンタリー創りのイロハを、イチからタタキこまれることになる。

打ち合わせでも撮影現場でも、ほとんど何から何まで瀬川さんに批判・否定され、悔しい思いを積み重ねる日々。瀬川さんの言いたい放題の辛口の弁舌に耐えながら、

いつもハラワタは煮えくりかえるようだった。

でも、映画「奈緒ちゃん」での瀬川さんとの12年間は、私にとってドキュメンタリーの学校のようであったと今はつくづく思う。

 

具体的な撮影内容に関することだけでなく、何故、映画を創るのか、というようなこともよく語り合った。

ある時「この映画が出来上がったら、一人でも多くの人に観てもらいたいですね・・・」と瀬川さんに何気なく言ったら、急に機嫌が悪くなり、

「君は、お手軽な仕事をやり過ぎてるから、そんなことを言うんだ。俺達の仕事は、沢山売れればいい、というような甘いもんじゃないんだ・・・受ければいいなんて考えは最低だ。本当に何も分かってない奴だオマエは!」と言われてしまった。

さすがにカチンと来て、「ただ、沢山の人に観てもらえれば・・・と言ってるわけではないです。一人でも多くの人に、と言ってるじゃないですか。一人でも、いいんです。一人でも、この映画を本当に受け止めてくれるヒトがいたら、と思うから創ってるんじゃないんですか?」と言って返したが、瀬川さんは、まだ憮然としている。

私は、自分の考えの方がこのことに関しては正しいと思い、大先輩に対して、挑戦的な物言いだと思いつつ

「じゃあ、瀬川さんは、誰に観せたくて、この映画を創っているんですか・・・?」と問い詰めた。

 

しばらく、私の眼を見据えて瀬川さんは黙った。

 

そして、かなりの沈黙のあと静かに「自分にだ・・・」と言い放った。「自主製作とは、何ごとにもとらわれず自分が観たい映画を創ることじゃないのか・・・ちがうのか?」と言いたかったのだろう。

 

ずっと「一人でも、多くの人に観てもらいたい」と言いつのり、自主製作・自主上映でドキュメンタリー映画を創り続けて来たけど、瀬川さんが言うように、私は自分が観たい映画を自分に観せたい映画を、創って来ただろうか?

 

自分が観たい映画とは、「自己満足」と言うわけでは決してなく、読む人のいないラブレター、のようなものか。これ以上ない、という想いをこめたラブレター。

どこにもいない誰かであり、わけのわからない自分という存在に向けて、すがるように語りかける物語のこと。キザに言えば本当に愛することであり、祈ること・・・そんな映画のことだ。

 

読む人のいないラブレター・・・

けれども、書かないわけには行かない、

創らないわけには行かない映画を創り続けるのだ。

 

秋、虫は何故鳴くのだろう?

誰かに聴かせるためではなく、

ただただ自分自信のために鳴いているのだろうか・・・

 

 

「悩み多き」2016.8-2


時々、「悩み多き」姉から携帯に長文のメールが入る。

姉、西村信子は私達の両親が夫婦別れしたことで子どもの頃から長女として苦労を余儀なくされ、結婚してからは、てんかんと知的障がいのある娘、奈緒ちゃんを授かり、障がいのある子ども達のための施設作りに奔走する、というような難儀な人生を送って来た。

映画「奈緒ちゃん」は、その姉の家族を弟の私が、子どもの頃の追いかけっこの延長戦のように撮影させてもらったドキュメンタリーだ。

 

奈緒ちゃんの一月遅れの誕生日(もう43才になる)で姉の家を訪ねた。

「実は先月、奈緒が続けて数日発作を起こしたの。ここのところすっかり安定して、年に12回という頻度だったのに、どうやら、発作を押さえる薬の呑み間違いが原因だったらしいのね。」

もう、40年以上薬を呑み続けている奈緒ちゃん。彼女にとって、薬の呑み忘れはあってはならないことだ。

「慌てて、てんかん専門病院の主治医の所へ行ったら

・・・お母さん、本当に危なかったですねえ、命取りになるところだったですよ・・・とキツく言われたの。」

奈緒ちゃんに限らないが、薬が無ければ生きることさえ難しい、病気や障がいのある人は、少なくない。

 

「このところ新聞の広告や、電車の中吊りで見かける週刊誌の、薬は呑むな!と言わんばかりの記事は、どおいうことなの?仲間のお母さん達も、とても気にしてる。」

確かに・・・でも読んでみると、人によって、副作用が出る場合があるという程度の内容が多いけどね。

派手な見出しで不安を煽り買わせようというやり口だ。

 

薬のことと同時に、姉の「情報社会」への不信感を募らせたのが、つい先日の神奈川・相模原市津久井の障がい者施設での大量殺人事件だった。

「障がい者はいない方がいい!」という、容疑者の言葉がテレビや新聞記事で踊った。この言葉が、どれだけ障がい者本人や、その家族、かかわっているひとり一人を傷つけたか、傷つけているか・・・

 

「奈緒ちゃんを、まわりのみんながいとおしく思ってくれていると思い込んでやって来たけど、それは間違いだと気づかされた。奈緒ちゃんや、障がい者を嫌っている人が沢山いるということを、今回のことで私は思い知らされたの。でも、オリンピックがあってよかった。しばらく、あの事件のことにメディアが触れないから。」

オリンピックが終わったら・・・

「メディアは自分の利益、お金をもうけることしか考えていないのだと思う。商売になる情報を次から次に喰い散らかしてるだけなのよね。」

メディアとは無縁でないドキュメンタリーの仕事をしてる私に、やり場の無い怒りをぶつけたかったのだ。

 

不甲斐なき弟は、次の日に携帯のメールで返信した。

「悩み多き青春」は「悩み多き熟年」「悩み多き老年」になるとは思わなかったけど、生きるっつうのは、そおいうことなんだな・・・多分。

けれども、奈緒ちゃんにはイロンナ悩みを吹き飛ばしてくれるパワーがあると思う。

不思議な力だ。「弱さの力」っていう奴が。

いつも撮影させてもらい、力をもらい帰ってくるんだ

・・・もう35年もね。

ありがとう。

 

姉から返信が来た。

「奈緒ちゃんが生まれたから沢山の人や物が生れた。

奈緒ちゃんが生きたから沢山の人や物が生きた。」

 

その通りだ!!

 

 

「原点」2016.8


ヒューマンドキュメンタリー映画祭<阿倍野>

14年目の夏がやって来た。市民の力で、よくここまで続けることが出来たと思う。「奇跡」のようだ・・・

実際には前年の冬、阿倍野区民センターで映画「えんとこ」を区の主催で自主上映してからで、中心スタッフには15年目と言うことになる。

※(「えんとこ」は、私の学生時代の友人、寝たきりの障がい者・遠藤滋と、一日24時間三交代で介助する若者達との、三年間の日々を記録したドキュメンタリー。)

 

その15年前の「えんとこ」上映、私のトークタイムの時にあった出来事が忘れられない。

トーク後の質問コーナーで一人の男性が挙手し「この映画の主人公のような寝たきりの障がい者は世の中に居ない方がいい、死んだ方がいい・・・」と発言したのだ。一瞬、何を言っているのか理解出来ず私は立往生してしまった・・・すると初老の女性の方がすぐに立ち上がり「そんなことはありません。この映画は、遠藤さんのような障がい者の存在が、若者達をたくましく育てて行く様子を丁寧に記録したドキュメンタリーじゃないですか!」と強い調子で語ってくれた。

すると会場から大きな拍手が沸き起こった。

あの瞬間に、私も、その後行動を共にすることになるスタッフの何人かも、スイッチが入ったのかもしれない。

「ヒューマンドキュメンタリー映画祭をやろう!」と。

 

一本のドキュメンタリー映画を観ることで、市民達が自分の言葉で「共に生きる」ということを語り合う。そんな場を、映画祭という場を創ってみよう。映画祭を、縁のあるところにして行こう・・・と、考えたのだ。

 

数日前、新聞紙上の見出しに「障がい者は、いない方がいい」と、活字が躍った。神奈川・相模原市で、一人の男が障がい者の施設を襲い大量殺人を犯したのだ。

15年経って、同じ言葉を聞くとは思わなかった。

一人の狂人が犯した事件と片付けられるだろうか・・・

格差社会のこと、ヘイトスピーチ、認知症をめぐる事件、児童虐待、保育園問題・・・どれも私達の社会が、今も、弱者に生きにくい状況であることを物語っている。

言い方を変えれば「障がい者は、いない方がいい」という言葉は「弱い者は、いない方がいい」ということではないか。私達の社会は15年経って何も変わっていないのか?むしろ、生きにくくなってしまったのではないだろうか・・・

 

押し返さねばと思う。と言っても、私のようなドキュメンタリーの創り手にやれることは限られている。

それでも押し返さねばと思う。

 

強いものに力があるとだけ思われがちだが、強さではなく、弱さにも力があると思うのだ。「弱さの力」とでも言うのだろうか・・・

そのささやかな力、ひとつひとつに気づいていくようなドキュメンタリーを創り続けよう。マスメディアのように大きな声にはならない、負け犬の遠吠えのような作品だと笑われるかもしれないが、負け犬の遠吠えだって

集まれば人々の耳に届く。

 

映画祭の最終日のプログラムには、15年前にこの映画祭を始めるきっかけになった「えんとこ」を予定している。15年後のえんとこを訪れた「えんとこ再訪」という短編作品も含めて、映画祭の原点を見つめなおそうという、私も含めた映画祭スタッフの意思表示のつもりだ。

 

弱さは、まわりの人々の力を引き出す力を持っている。

 

共に生きるとは、どおいうことなのか・・・

夏の終わりにひととき思いを巡らせよう。

 

 

 

「夏、肯定感」2016.7


自分のことは自分が一番よくわかってない。

ロクでもない奴だ、ということだけはわかっているつもりだから、それ以上知りたくはない。

 

それでは、自分が創った作品は?と言えば、私は何十回でも何百回でも自分の作品を観ることが出来るし、観たいとも思う。(自分の作品は、あまり観たくないという制作者もけっこういる。)

でも自分の作品のことも、私の場合自分が一番よくわかってないのかもしれない。取材の記者に「今回の作品のアピールポイントは?」と聞かれたら、だいたいシドロモドロになってしまう。はて?何だろう?俺は一体何を言いたかったんだろう?

カントク失格かなぁ・・・

 

冷静に考えて見る。

 

大学を出てプータローのような時期を経て、ふとしたきっかけで記録映画の世界に拾われた。生きるために金をかせがなければならなかったし、好きにもなった。天職だとさえ思った。映像の世界で生活出来ればありがたいと思い、夢中になって仕事をし、今に至っている。

ドキュメンタリー映画を自主製作・自主上映で創るようになったのも、色々な偶然が重なり、創らないわけにはいかない、一本だけでも創ろうと思って手がけたのだ。

てんかんと知的障がいのある姪っ子と、その家族の12年間の記録は「奈緒ちゃん」という映画になった。もともと、自主製作と言うのがアマチュア仕事みたいでしっくりこなかったから、これ一本だけだなと思っていたんだけど、創らないわけにはいかないという映画を次々手がけるようになり、もう何本の映画を創っただろう・・・

ほとんどアトサキ考えずに作品を創り続けて来た。

 

そして、新作が誕生した。

『いのちのかたち 画家・絵本作家 いせひでこ−』

という映画。決して美術映画というわけでもないし、

ジャンルはよくわからないけどキャッチコピーは「絵本のようなドキュメンタリー」だ。

 

で、取材記者の質問に立ち返って「今回の作品のアピールポイントは?」「伊勢さんの作品のセールスポイントは?」とツラツラ考えてみる。

強いて言えば「肯定感」ということかもしれない。

昔から、ずっと言われ続けているのは「ツッコミが足りない」「甘いと思う」「批判的な視点に欠ける。これではドキュメンタリーではない」・・・ドキュメンタリーの本流とはほど遠い作品を、創り続けて来たのだと思う。でも、そおいう風にしか創れないのだから仕方ない。

 

「肯定感」と言えばえらく聞こえはいいけど、いいな、と思う「人」や「いのちあるもの」にただただカメラを向け、いいないいな、と思いながら編集して、いいでしょう?と同意を求めるように音楽をつける。そんなものはドキュメンタリーとは言えない、と言われたら、スンマセン、ゴメンナサイ、申し訳ない、と頭を下げるしかないが。

 

いせさんの映画は♪応援歌のようですね、と時々言われる。よく眠れる、とも言われるから♪子守唄のようでもあるかもしれない。

 

♪応援歌のようでもあり、♪子守唄のようでもある、

「肯定感」たっぷりの新作『いのちのかたち』、

応援してほしい。

日比谷、安曇野、花巻、で完成上映会をやり、11月から東京をキッカケに全国各地で上映の予定だ。

自主上映にも取り組むつもりなので、よろしくお願いします。

 

※2010年4月のつぶやき 

「春、肯定感」はこちらからお読みいただけます。

 

 

 

「片想い」2016.6

 

出来た!

新作が完成した!!

映画のタイトルは

『いのちのかたち 画家・絵本作家 いせひでこ−』。

まるで「絵本のようなドキュメンタリー映画」が、誕生しました。

 

いせひでこさんと私は同姓ですが、血縁関係ではありません。時々「奥様ですか?」と聞かれるのですが、「母です。」と答えることにしています。

実は同い年、丑年なのですが・・・

かなり昔から私は、ひでこさんの宮澤賢治原作の絵本やエッセイを読ませてもらい、シンパシーを寄せていました。まぁ片想いです。

 

その距離が近づいたキッカケは、小児がんの子ども達の映画の撮影で、聖路加国際病院の小児科病棟に通い詰めた頃からのことです。

病棟には、ミッキーマウスや子ども達に人気があるキャラクターを描いた絵が飾られていたのですが、その中に一点、ひでこさんの作品『五月の歌』がありました。

チェロを弾く少年の背中と、空と雲、を描いたその絵は、小児がんと闘う子ども達の「いのち」に、優しく触れる風のように見えました。すっかり気に入ってしまった私は、病棟での撮影の度に、その絵をカメラにおさめさせてもらいました。

その映画の企画者、聖路加国際病院小児科の細谷亮太医師がたしなむ俳句の言葉からとったタイトルは『風のかたち』、ひでこさんの作品『五月の歌』は、映画の内容にぴったりだと思い、チラシやポスターに使用させて頂くお願いをした時に、はじめて、御本人とお逢いすることが出来たのです。

 

ひでこさんは、『風のかたち』や姉妹作『大丈夫。』等、その後の私の作品を、御主人でノンフィクションライターの柳田邦男さんと共に必ず観に来てくださるようになり、お酒を呑み交わし、おしゃべりする友達付き合いをするうちに、今回の企画が立ち上がりました。

そして、カメラが回りはじめてから4年の歳月が流れ、映画『いのちのかたち』は、かたちに成ったのです。

 

片想いからはじまった果てに、辿り着いた映画。

ひでこさんも又、絵描きとして、モチーフに深い片想いを寄せるタイプの表現者です。

『いのちのかたち』は、ひでこさんが片想いし、気持ちを寄せていく傍に寄り添って撮らせてもらったドキュメンタリー、片想いの、その又片想いの映画かな?

 

この映画での、ひでこさんの片想いのお相手は、東日本大震災の被災地、宮城県亘理町吉田浜の野で出逢ったクロマツの倒木・・・

その一本のクロマツに「いのち」を感じとり、その「いのち」への想いを深めることで「かたち」にする創作の過程を中心に迫った内容です。

クロマツだけでなく様々な「いのち」が、ひでこさんの手と心を経て、絵や絵本に、「かたち」に成っていくことも紹介されています。

 

画家・絵本作家いせひでこさんの、たぐいまれな才能のほんの一端に触れた映画に過ぎないとは思います。

けれども、ひでこさんと同時代を生きて来た私が、寄り添う気持ちで描いたこの映画は、時代そのものの空気を写し撮り、

今を生きること、今を描くことを、

他人事ではなく、自分のこととして深めることで完成した作品だ、と考えています。

 

「絵本のようなドキュメンタリー」ぜひ観て欲しい。

 

 

 

 

「途中下車などせずに」2016.5

 

もう初夏なのでしょうか・・・

 

いつ頃から、上映の旅へ出ることを私は「巡業」と呼びはじめただろう?「旅芝居」や「お相撲」と違うのは、ほとんどが独り旅だ、と言うこと。上映に行くと言うよりも、巡業に出る、と言った方が私の気持ちの雰囲気が近いと思ったからだ。

 

ここのところも毎週末、巡業が続いている。先週末は、静岡・浜松の上映で挨拶してからその日のうちに岩手へ入り、翌日宮古のミニシアターで「妻の病」「ゆめのほとり」の上映だった。そしてドジを踏んでしまった・・・

 

花巻在住の澄川嘉彦監督の手配で、盛岡から宮古行きのバスに乗ったまではよかった。二時間半近いバスの旅をノンビリ過ごしていたら、山あいの停留所に止まりお客さんがドッと降りた。

「あ、トイレ休憩だ・・・」と慌てて私もバスを降り、トイレの前で振り返ったら、我がバスは走り去って行った。巡業用のリュック、ジャケット、財布もろとも居なくなってしまったのだ。

 

「ヤバイ」上映に間に合わなくなると思い、携帯電話で各方面に連絡をするが繋がらない・・・

もう千ヶ所近い上映を体験しているが、穴を空けたことは一度もない。スピーチも下手だし、映画も上手くないかもしれないが、どんなことがあっても、待ってくれているお客さんと真正面に向き合って来たつもりの巡業人生だったのに、なんてこった。

山の中で待つこと一時間半、付近に群生していたタンポポの綿毛遊びなどをして時間をつぶし、次のバスに飛び乗って映画館に駆けつけた。

ハァ〜、セーフでした・・・

珍道中の巡業報告、こんなこともたまにはある。

 

最近は、巡業の旅のどこへ行っても各地のミニシアターがピンチだ、という話題になる。全国にわずかに残り、シネコンとは一味違う作品を上映し続けている単館の映画館は、すでに30館を割っているという。

何とか上映を続けてほしいと願うばかり。私の作品のような、地味なドキュメンタリーをかけてくれる最後の砦のような場だ。

 

映画館が存亡の危機にさらされている、ということは、そのまま創り手である私達も存亡の危機にある、ということだ。(テレビ局や大手のプロダクションは別かもしれないが)私の場合は、自主上映をしてくれる各地の人達の存在が支えになっているとは言っても、状況が極めて厳しいことにかわりはない。

「行けるとこまで行くんだ・・・」と自主製作で遮二無二やって来たけど、いつまで創り続けることが出来るのか、あと何本創れるのか、と考えることもしばしばだ。まぁ、映画創りだけが大変なわけではなく、どんな仕事だって大変だ。いつだって存亡の危機なのだ、とは思うけど、それにしても・・・

 

「まだまだあきらめない・・・」

と自作「えんとこ」の主人公、学生時代の友人で、もう何年も寝たきりの障がい者・遠藤滋が私に呟いたのは二十年近く前のことだ。

遠藤は「まだまだあきらめない・・・」と、映画の中で呟き続けている。多分、今もベッドの上で呟いているに違いない。

 

クソ!負けてたまるか!!

 

巡業を続けよう。

途中下車などせずに「行けるとこまで行くんだ・・・」

 

 

 「目をつぶる遊び」2016.4

 

「今、あなたがいる場所で

 耳を澄ますと、何が聴こえて来ますか。

 沈黙はどんな音がしますか。

 じっと目をつぶる

 すると 何が見えて来ますか。」

          (長田 弘 「最初の質問」から)

 

友人のいせひでこさん(画家・絵本作家)が長田弘さんの詩をもとにして描いた絵本「最初の質問」に、そんな一節がある。雪のつもった枝に小鳥がじっとしている、シンとした絵が添えられている。

 

「じっと目をつぶる」というその詩の言葉に、強く魅かれた。何だか懐かしい思いを抱き、この懐かしさは一体なんだろう、と考えていたら思い当たることがあった。

 

ガキの頃、じっと目をつぶり 思いを巡らせ、ゆっくり目を開き 目の前の光景を見る、という独り遊びをしていたことがあったのだ。誰にでも経験があるかもしれない、他愛のない「目をつぶる遊び」だ。

もう少し正確に言うと、たとえば、野原とか、海とか、グランドとか、目の前に広がる世界を見てから、ゆっくり目をつぶる。目をつぶりながら色々なことに思いを巡らせ、又、ゆっくりと目をあける。すると、ほんの少しだけ目の前の光景が変わって見えてくる。それが面白かった。繰り返し繰り返しそんなことをしていた思い出がある。

 

フェイドアウトして、フェイドインして、そして又フェイドアウト・・・まるで映画のように。

 

(ガキの頃だけでなく。今も気がつくと目をつぶって考えごとをしてるけど、今はそのままウトウトしてほんとにフェイドアウトしてしまうけどね。)

 

もう二十年以上も、自主製作、自主上映で自分なりの映画を創ってきた。ほとんどは勝手な思い入れで創ってきたようなものだ。ガキの頃の「目をつぶる遊び」の延長戦を、繰り返しやっているようにも思う。

 

自主上映に取り組んでもらうためのいせフィルム作品リストを見ていると、一本一本の映画の紹介と言うよりも、長い一本の映画の紹介のように私には思えてくる。あの作品を創ったから、この作品を創ることになり・・・という具合に、どの作品も私の中では濃密につながっている。必ずしも順番につながっているというわけでもなく、例えば初期の作品の「をどらば をどれ」と、新作の「ゆめのほとり」はしっかりつながっていると思えたりね。私は、長い長い一本の映画を創り続けているのかもしれない、と。

機会があったら自作の映画全部を、一本につなげて観てみたい。そんな長い映画は誰も観たがらないにちがいないけど、そのうち一人で観てみよう。

あの世に旅立つ時には、走馬灯のように記憶がフラッシュバックすると言うけど、私の場合その時こそ、今まで創ってきた映画が走馬灯のように流れるのかもしれないから、楽しみにしていよう。

 

まだ未完成の走馬灯の続き、もうじき最新作が完成する。

その作品に長田弘さんの詩の一節

「じっと目をつぶる

 すると何が見えて来ますか。」

を入れさせてもらった。

 

「目をつぶる遊び」で始まったような私の映画創り、

その最新作、出来上がったらぜひ観に来てほしい。

「目をつぶり」「目を凝らし」、

何が見えて来るのか、思いを巡らせてほしい。

 

 

 

 

「愛しなおす」2016.3

 

『春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、

 

再び春は来る。

 

「いのち」は生きるほうへ向かうのだから。』

 

 

 

映画「傍(かたわら)〜311日からの旅〜」のチラシに寄せた私の言葉だ。あれから五年目、311日のその日、私達はカメラと共に「傍」の舞台となった宮城県・亘理町吉田浜に居た。何のためにと言うよりも、

 

そこに行かなければと思ったから。五年前、そこに行かなければと思いこんだことの延長戦のような思いで。

 

 

 

吉田浜の海は少しも変わらず、寄せては返す波は静かに息をしていた。しかし、沿岸の集落は跡形も無くなり、無機的に整地された空間の中にポツンと小さな墓地が取り残されていた。そこは、私達が「傍」の撮影で足しげく通った墓だった。

 

吉田浜に生きた一人ひとりが、静かに眠る場所だ。

 

 

 

「心」という墓碑銘の前に佇み、「心は人と人との間にあるんだ・・・」と言っていた亡き友人のことを思う。「いのち」の行き場は一体どこにあるのだろう?

 

とりとめのないことに思いを巡らせながら、とりとめのない撮影をした。

 

 

 

ただ黙って祈るしかない、と思う時がある。「傍」はそんな思いだけで創った映画だ。その時の思いに立ち返って撮影したつもりだ。

 

胸さわぎを静めるには、胸に手を当ててみるしかない。胸さわぎのわけは自分で確かめるしかないのだ。

 

 

 

ここのところは「妻の病 −レビー小体型認知症−」「ゆめのほとり 認知症グループホーム 福寿荘−」の上映に取り組んでいる。共に認知症を描いた映画だが、登場人物への観た方々の共感が、とても強い作品だ。

 

「妻の病」は認知症の映画と言うよりも、ラブストーリーだ、と観るお客さんも多いようだ。

 

 

 

「妻の病」の主人公・石本浩市さんが、妻・弥生さんへの想いをつづった日記の中に「愛しなおす」という言葉を目ざとく見つけたお客さんが、「感動した!」と感想や手紙をくれたりする。

 

「愛しなおす」・・・

 

認知症の妻への想いをこめたこの言葉のメッセージは、誰にも当てはまるものだけに心動かされるのだろう。

 

 

 

石本さんは「愛しなおす」という言葉を、もう一度

 

「愛する」という意味合いで書かれたのだと思う。

 

けれども「愛する」ということはそもそも「愛しなおす」ということなのでは、と思う。絶えず「愛しなおす」ことが「愛する」ことだ、と。

 

同じように、「生きる」ということは「生きなおす」ことだ。ひとときひとときを「生きなおす」ことこそが

 

「生きる」こと。

 

 

 

映画を「創る」ことは「創りなおす」ことか・・・

 

 

 

ふと、いつまでこんな風に映画を創り続けるのだろう、と思うこともある。

 

夢中になってやって来たけど、まだ夢は覚めない。

 

 

 

「愛しなおす」ように映画を「創りなおす」。

 

映画を創り続ける一本の道を、ただただ歩く。

 

♫ あれからどの位たったのか

 

  あれからどの位たったのか・・・ ♫

 

友人の歌い手、友部正人の名曲を夜道で口ずさむ。

 

誰も聴いていない。それでいい。

 

 

 

・・・再び春は来る。

 

 

 

「ブルブルッ」2016.2

 

私は、129日生まれ。

父は、222日生まれで11日に死んだ。

母は、19日生まれで218日に死んだ。

冬になると生き死にを考え、

父と母のことをしきりに思う。

 

父は記録映画の編集者で、戦前・戦中・戦後を生きた映画人だった。その父のことをドキュメンタリーにしようと、もう三十年来撮影を続けているが、まだ完成しない。

父のことを「あんたの親父さんは・・・」と語る人はけっこういたけど、母のことを「あんたのオフクロさんは・・・」と言う人はほとんどいない。

 

オフクロの話題が出るのは、今となっては姉との会話の中だけかも知れない。

ここのところ姉は「私、お母さんに似て来たみたいで嫌だなぁ・・・」と言う。私はかなり前から姉はオフクロに似ているな、と思っていたが・・・

 

父と母は、私が三才になるかならないかの頃夫婦別れしたので、私は姉と共に母に育てられた。

女手ひとつで子どもを育てた、と言えばしっかり者の母親を想像するかもしれないが、そうではない人だった。

 

カレーライスを作ると、大きなカレー粉のかたまりがいくつも入ったものになり、ミソ汁の豆腐は、ほぼ一丁かたまりのままという豪快さ、持たされる弁当も見てくれ関係無し、学校でひどく恥ずかしかった記憶がある。

家事が苦手でも、仕事をバリバリやったかと言えば、それがそうでもなく、いつも家でノンビリ、タバコをくゆらしているような人で、必然的に家計がままならず、借金に追われる日々だった。

長女だった姉は、散々苦労させられてずっと母を嫌っていたのだ。

私は長男で末っ子。母にも、家を出ていた父にも、甘やかされて育ったと思う。

何ごとにつけ、厳しさが足りない甘い私の性格は、両親の甘いところをそのまま受け継いだからにちがいない。

そんな風に優しく育ててくれた両親、特に母に、私が優しく接し、いわゆる親孝行したかと言えば・・・

全くそんなことはなかった。

 

ノンビリ屋に見えたけど、今思うに、辛いことも沢山あったにちがいない母に、私は冷たかった。

思春期の頃からは、優しくされればされるほどウトマしく思うばかりだった。

母が死んでしまってからずっと、何故私はあんなに優しくしてくれた母に、優しく出来なかったのだろう・・・と思い続けている。

 

母は、きっと寂しかっただろう。

 

ヒューマンドキュメンタリーと称して映画を撮り続けている私は、正しく優しい人と思われたりする。

そんなことないのに・・・

時々、映画を観た人の感想や手紙で「伊勢監督の眼差しは優しい」なんて言われると、その度に、母や父に優しく出来なかった自分を思い、ヒヤッとする。

 

私が優しく出来なかったのは、

母や父だけではないかもしれない。

 

冬、生き死にを考える季節。

ここまで生きて来た自分を悔い、恥じらいながら、

ブルブルッと震える。

 

春よ来い。

 

 


「ただただ・・・」2016.1


人生一喜一憂、七転び八起き。

 

暮れから正月にかけて何ヶ所かの劇場で、『妻の病−レビー小体型認知症−』『ゆめのほとり−認知症グループホーム 福寿荘−』が上映された。年末年始の忙しい時に、我が映画に足を運んでくれるお客さんにお礼を言いたくて顔を出した映画館で、見たくない光景に出くわした。

 

映画が始まっても客席に人がいない・・・入場者ゼロ。

結構打ちのめされた。一人でも二人でもお客さんがいれば「まあ、ここからボチボチやるさ」という気分にもなるけど、ゼロはねえ。上映してくれている映画館のスタッフに申し訳がたたないし、映画に協力してくれた方々、上映に取り組んでくれているスタッフにも報告にしようがない。

あぁ、どうしたらいいんだ、という思いのままに年が暮れ、そして明けた。

 

正月は、いせフィルム恒例の「奈緒ちゃんシリーズ」ロケで始まった。34年目の撮影・・・。もう43才になった奈緒ちゃんの見事な仕切りで、今年も楽しい正月が撮れた。正月の奈緒ちゃん一家を定点のようにずっと記録し続けて、一体、私はどんなドキュメンタリーを創ろうとしているのだろう? 撮影を始めた頃のキャッチフレーズ“育み、育まれる家族のしあわせ。”そのままのような気もするし、じゃあ“しあわせ”って一体何だ? と考えたりもする。

 

19日(土)は、本年初の自主上映。我が姉(奈緒ちゃんのお母さん)が中心になって、横浜市泉区の公会堂で『妻の病』『ゆめのほとり』を上映、ママクリオ(『ゆめのほとり』主題曲を演奏してくれたバンド)のライブもあり、とてもいい雰囲気の集まりだった。

「認知症の映画、介護の映画、というより、人に優しくしたくなる映画でした。あたたかいものが今でも心に残っています。」というメールが、見ず知らずの人から届いた。励まされた。

 

116日(土)は「ヒューマンドキュメンタリー映画館 日比谷」。もう21回目の開催、お祭り好きのいせフィルムならではの集まりとして、年四回の開催を楽しみにしてくれる人もいる。

今回は、我がいせフィルムの雪組、穂高の山男・ハッちゃんこと宮田八郎撮影の山の映画三部作がプログラム1。プログラム2は、名作『大丈夫。−小児科医・細谷亮太のコトバ−』上映と「いせ映画の裏方たち」というタイトルで、題字やチラシ創りの話を、細谷亮太さん(題字)・森岡寛貴さん(グラフィックデザイナー)と私とで行い好評だった。「映画は監督の強いリーダーシップによって創られると思われがちだけど、むしろ頼りない奴、何も出来ない奴が一人いるから、まわりのみんなが頑張ってくれるんだ」と言い訳のような監督論を喋った。

 

いいことばかりではないけど、映画を創り観てもらうナリワイは、悪いことばかりでもない。つべこべ考え過ぎずに、続けることだ。

 

「ヒューマンドキュメンタリー映画館 日比谷」で、山男のハッチャンが「何故山に登るのか?」という問いかけに、「登らないわけにはいかないんだ」と応えていたが、私も又、「創らないわけにはいかないのだ」と思う。

世の中の誰一人として、我がドキュメンタリー映画を望んでいなくても、私は、創らないわけにはいかない。足元だけを見て、ただただ登り続けるように、ただただ創り続ける。たどり着くことなどない、見えない頂上に向かって、ただただ・・・。

 

2016年、いい年にしましょう。