監督のつぶやき

2017年

 

最新号      2017年2月更新

 

「人生は祭だ!」   2017年2月 

「無我夢中」   2017年1月 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人生は祭だ!」2017.2


年長の友人、宮本晧司さんが旅立たれた。

宮本さんは、もう二十年近く前に埼玉で映画祭を始めた時の仲間、リーダーのような存在だった。出版社勤めの宮本さん、ノンフィクションライターの柳原和子さん、映像作家の渡辺哲也さん、そして私、の四人が中心になっての二日間だけの小さなドキュメンタリー映画祭は、その後、何ヶ所かで私が始めた映画祭のきっかけになった「お祭り」で、七年間程続いたと思う。

 

私以外のメンバーはみんな、今はもういない。あっちの世界で、又、映画祭をやっているかもしれない。

 

「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」

「はなまき映像祭」

「大倉山ドキュメンタリー映画祭」

「ヒューマンドキュメンタリー映画館 日比谷」

私は、今は四ヶ所で、映画祭のようなものをそれぞれ各地の仲間達とやっている。

自主製作・自主上映するナリワイの合い間に、というか、各地での映画祭の合い間に、自主製作・自主上映の活動をやっている、という感じかなあ・・・

私がかかわっている映画祭は、東京国際映画祭や山形ドキュメンタリー映画祭のような有名な映画祭ではないので、知る人ぞ知るだけど、私にとっては大切な、年に何度かの「お祭り」、お祭り好きだから。

 

小さな映画祭とはいえ、続けて行くにはなかなか大変、コストもかかるしね。スタッフは基本的にボランティアだから、それぞれ自分の仕事をかかえながら時間をやりくりし、準備をすすめ開催にこぎつける。時には意見の違いがあるのは当然のことだから、いつもそれを調整しながらの運営だ。

私はどの映画祭も、この指止まれ!を言って映画祭を始めた言い出しっぺのひとりだから、シンドイことがあってもニコニコ笑ってなきゃいけないしね・・・

でも、色んな出逢いがあって楽しいことこの上ないから、やめられない。

「遊びをせんとや生まれけむ・・・」(梁塵秘抄)

と言った昔の人がいたらしいけど、本当にそう思うな。そうして生き切って、くたばりたい。

 

四つの映画祭のひとつ、大阪・阿倍野で続けてきた「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」は、今年で15回目の開催になる。そして今年が最終回になる。映画祭のホームページに書いた私のメッセージを引用します。

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みんなに支えられ続けて来た私たちの「映画祭」は

今年で幕を降ろします。

お世話になりました。

本当にありがとうございました。

 

出来れば理由は聞かないで欲しい。

大切なことには、理由がないのだ。

映画が好きになったり、人を好きになったりすることに、

いちいち理由が無いように。

「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」は、今年で終了します。

 

支えてくださったみなさんに

「ありがとう」の気持ちで

15年目の「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」を開催したいと思います。

 

笑顔で集まりましょう。

そしておおいに別れを惜しみましょう。

祈再会。

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始まりがあり終わりがある。

「いのち」には限りがあるのだ。

 

「はなまき映像祭」は今年で17年目になるけど、まだまだ続けるつもり。

「ヒューマンドキュメンタリー映画館 日比谷」は、この5月にもう26回目の開催になるけど、これも続けて行きたい。

「行けることまで行くんだ」という精神で生きてるからね・・・「ヤル時はヤルよ」だ。

 

一番近々の映画祭は、毎年、早春に開催される「大倉山ドキュメンタリー映画祭」。大倉山記念館というとても素敵な所が横浜にあり、その建物と庭に惚れこんで始めた映画祭だ。

丘の上にある大倉山記念館まで行くのがけっこう難儀だけど、白い息を吐きながら坂道を登り、小さなホールで、ドキュメンタリー映画を観るヒトトキは「至福」だ。

映画を観るというのは体験だからね。いつ、どこで、だれと、観た、という記憶が映画を包みこみ、映画体験として心の中で一人ひとりの物語となるのだ・・・

オーバーに聞こえるかもしれないが、「生きていてよかった」と感じるくらいに。

 

「人生は祭だ!」と、巨匠フェデリコ・フェリーニは言ったらしい。フェリーニのような映画は、とてもとても創れないヘボカントク(私)だが、「人生は祭だ!」という一言に、深く共感する。

 

祭りのように映画を創り・・・

祭りのように映画を観て・・・

 

「映画祭」・・・出逢い、出逢いなおすこと。

いつかどこかの「お祭り」で逢えますように。

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2017325日(土)〜26日(日)

10回 大倉山ドキュメンタリー映画祭 

神奈川・横浜市大倉山記念館

http://o-kurayama.jugem.jp

 

2017514日(日)

26回 ヒューマンドキュメンタリー映画館 日比谷

東京・日比谷図書文化館 

https://www.isefilm.com/ヒューマンドキュメンタリー映画館-日比谷-1/

 

2017624日(土)〜25日(日)

ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》2017 

大阪・阿倍野区民センター

http://hdff.jp

 

20179月(詳細未定)

はなまき映像祭 

岩手(花巻)・ブドリ舎

 

 

 

 

「無我夢中」2017.1

 

父は正月元旦に死んだ。60才だった。

年末年始、私は大晦日に父の墓参りをして、命日に当たる元旦は、独りでボンヤリすることにしている。

今年の元旦は、ずっと撮り続けている障がいのある姪っ子、奈緒ちゃんの撮影だった・・・もう36年目に成る。奈緒ちゃんは、父が死んだ年の夏に生まれたから、奈緒ちゃんの歳を数えると父が逝ってしまってからの歳月がわかる。奈緒ちゃんは今年44才・・・と言うことは、父が居なくなってもう44年に成るということだ。

 

父、伊勢長之助は記録映画の構成・編集者として戦前、戦中、戦後を生きた。中学生の頃から、9.5ミリのフィルムで映画を創り、大学では映研で、記録映画の父と言われるエイゼンシュテイン(ロシア)の作品を上映していた、というからバリバリの映画青年だったのだ。

東宝の前身、PCLに入社し(黒澤明なども同僚だった)記録映画の道を自ら、選んだ。戦後、PR映画で売れっ子になった父は「長さん!」と呼ばれ、知る人ぞ知る職人映画人として、地味ながらいい仕事をしたと思う。

 

私は、人並みに映画は好きだったが、父への反発もあり、思春期の頃から映画の仕事、映画人に対して憎しみのような感情を抱いていた。「映画は一人前の大人がやることじゃない・・・」などと、生意気を言っていた。

父の仕事、映画の仕事だけはやるまいと思っていた私が、映画の仕事に手を染めるようになったのは、父の死後、間もなくだった。ふとしたきっかけから、映画の仕事、それも父と同じ記録映画の仕事をやることになったら、これが面白いことこの上なく、天職だとさえ思った。

「無我夢中」と言うけど、その言葉通りに、この道を突っ走ってきたように思う。父も又、「無我夢中」に40年に及ぶ映画人生を送って来たのに違いない。

父と私の、数少ない共通点を探すとすれば、「無我夢中」ということかな・・・

 

暮らしを共にしなかったこともあり、父が一体、何を考え生きて来たかを私はほとんど知らない。映画の仕事をやるようになって、父のことをモーレツに知りたくなり、戦前、戦中の父の仕事、特に戦時中、インドネシアでの国策映画創りのことを調べ始めた。父は戦時下のジャワ(インドネシア)で、大東亜共栄圏の考えの下、アジアを植民地化し日本に統合するためのプロパガンダ映画を製作する任務を、軍の報道班員として担っていた。

 

調査を始めて数年後、父が働いた撮影所が現存すると聞き、ジャカルタを訪ね、父達が製作した当時の国策映画が保管されていると聞き、オランダを訪れた。戦時中の父とその仕事を追ったプライベートドキュメンタリーは今も製作中、未完成で、クタバルわけにはいかない。こればっかりは創らないわけにはいかないのだ。憎しみと言うか、愛情と言うか、私を映画に導いてくれた父への、恩返しのようなものなのだから。

 

ジャカルタの撮影所で、父は、「無我夢中」になって国策映画を創っていたにちがいない。もしかしたら、父の生涯の中でその時代とその撮影所こそが、最もしあわせなひと時、ユートピアのような場所であったのかもしれない。そんな風に思うことがある。

 

「無我夢中」になって、記録映画を創り続けてきた父と子の物語は、今しばらくお待ちいただくとして、父が手がけたジャワ時代の「幻のフィルム」の一部だけでも観てもらいたい、と思って128日(土)東京・日比谷図書文化館地下一階での、第25回ヒュマンドキュメンタリー映画館 日比谷で、上映しようと思う。

 

私事ながら、129日(日)は私の誕生日だ。誕生祝いだと思って観に来て欲しい。お待ちしています。

 

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