2015年のつぶやき

 

「名人」                  2015年12月

映画への返信から」      2015年11月-2

秘密と嘘と言いわけ」   2015年11月

 アナンジュパス」         2015年10月

遊びをせん」               2015年9月

夏の「記憶」」             2015年8月

早池峰薄雪草」     2015年6月

 「春、新作完成!」       2015年5月

 「こぶし」         2015年4月

 「お祭りごと」       2015年3月

 「あなたに誉められたくて

              2015年2月

 

 

 

名人  2015.12

 

あっという間に一年が過ぎる。

 

アトサキ考えずに遮二無二突っ走って来て、

いつも年の瀬になり「あっという間に」に気づく。

きっと、人生っていう奴も「あっという間」に幕を閉じるのだろう。

馬鈴を積み重ねる、というけどホントにそんな具合にやって来た。

年を喰えばそれなりに物事をしっかり考えられる「オトナ」になるのだ、

と思ってたけど、

そんな気配も更々ない。まだまだ「ガキ」っぽい。

 

今年は『妻の病−レビー小体型認知症−』の上映に取り組み、

新作『ゆめのほとり−認知症グループホーム 福寿荘−』を完成させた。

認知症をテーマに映画を創り、観てもらう一年だった。

おかげさまで、各地での自主上映も100ヶ所を越えた。

多分、2万人程の方々が『妻の病』を観てくれたはずだ。

新作『ゆめのほとり』は、前作『妻の病』と併映で全国各地で絶賛上映中。

『スターウォーズ』と集客を競っているので(?)未見の方はぜひ足を運んでほしい。

 

先日、仲間内の集まりで

「伊勢さんの作品は何を手がけても80点以上は取る。うまく成り過ぎてる・・・」と

言われてしまった。

誉めてるんだか貶してるんだか、よくワカラナイなあ、と思いながら聞いてたけど、

批判的な気持ちで言ってるんだ、としばらくして気がついた。

そして、言われたことがだんだん気になり頭から離れなくなって困った。

図体はでかいけど、肝っ魂は小さくできているからね。

決して「うまく創ろう」と思って創っているわけではない。

自分の中に「うまく成りたい」という強い職人意識があるのは確かなことだけど、

モノを創る人間は、誰しもそう思っている筈だ。

まだまだだ、まだまだだ、という気持ちが創ることを支えてきたともいえる。

目一杯もがきながら創っているつもりで、いつまでたってもうまくならないから、

映像にしがみつくように映画創りをして来た。

うまくならないうちは、映画を創り続けることができると思っていたけど、

ハタからはそうは見えないということか・・・辛いこっちゃ。

「うまく成り過ぎて、つまらない・・・」と、ダメを出されたような気にさせられた。

みんながそう思っているわけではないだろうが、

そのように思っている人もいるということ。

近しい仲間だからこその厳しい苦言だ。

 

もう何年も年中無休で働いて、年に一度だけ休むことにしている。

12月31日、大晦日。必ず父の墓前に手を合わせに行く。

父は60才で他界した。記録映画の「編集の名人」と言われて、

本人も満更ではなかったようだ。

「うま過ぎる」とダメを出されるのではなく、

もっともっとうまくなって、私も父のように名人の域までたどり着けばいいのだ。

でも「ドキュメンタリーの名人」というのは、ちょっと違和感があるかな・・・?

まあ、名人と言われなくてもいいから、

あいつはツマラナイものばかり創ってると思われてもいいから、

ただただ創り続けよう。

私には創らないわけにはいかないと思っている映画がある。

もちろん、「創りたい」という私の勝手な思い込みだけど、

何としてでも創らなければと思っている作品があと何本かある。

 

恒例の大晦日の墓参り、ここのところはいつも何人かの仲間が付き合ってくれてたけど、

今年は昔に戻って独りで行くことになるかもしれない。それもいい。

親父とゆっくり話してこよう。

 

創らなければ、と思い込んでいる何本かの映画を完成させるまでは、くたばらない。

新しい年が、いい年でありますように。

 

 

 

 

映画への返信から 2015.11-2

 

二十年程前に製作した私の自主製作デビュー作『奈緒ちゃん』の頃から

欠かさず私の映画を観続けてくれているお客さんの一人、Nさんから、

新作『ゆめのほとり−認知症グループホーム 福寿荘−』に寄せた

映画への返信のような感想が届いた。

 

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「いつものディナー」

 

人って素晴らしいね。

産まれ出るときは着物など着ずに、

もちろん現金など持たずに、何の記憶もなく、

母の脈のリズムを最初の記憶として

スッポンポン丸裸で産まれ出ます。

 

その後、人間として長く生きて

「福寿荘」にたどりついたスッポンポンだった赤ちゃんたちは、

記憶をたくさん詰め込んだ為に、

顔はしわくちゃになってます。

 

ここでは嫌な記憶から順次に消えていくのでしょうか? 

欲も見栄も消えて、最後は歌を唄っている。

そして歌の記憶がなくなると、

母の胎内のリズムの記憶だけが残り、

指先がそのリズムを刻んでいる。

 

そうか、わかった!ここは母の胎内かもしれない。

「福寿荘」は人間が産まれてくる仕組みを

見せてくれているのかもしれない。

人間は産まれるときは何も着ていないし何も持っていない。

だから死ぬときも何も持って行かない。

記憶までも持って行かないように、

神様はしてくれたのか・・・。

この作品を観て、そんな風に感じた。

良い映画ですね。

 

行きつけの好きなレストランというのは、

味が変わらない、ということか。

大切なことだと思います。

レストラン伊勢屋の板前さんやコックさん、

ウェイターやソムリエさん、この人たちが実に上手い。

新しいメニューも安心して食べることができます。

認知症等の映画を他に何作品か観ましたが、

どれもニュース映画やPR映画です。

ドキュメンタリー映画は、

レストラン伊勢屋に行かないと会えないかも。また。

 

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 そして、私はNさんにこんな返信をした。

 

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吉祥寺に「伊勢屋」という焼き鳥屋があるけど、

江戸時代は、江戸の街そこら中に「伊勢屋」という名の店があったらしい。

お伊勢参りから帰って来ると、

屋号を「伊勢屋」と改名するところが結構あったといいます。

「巨人・大鵬・玉子焼」のような類で、

街にありふれたものを「お伊勢・稲荷に・犬の糞」と

呼んで馬鹿にしたらしいんだ。

 

その「伊勢屋」も今では珍しい存在になっているというオホメの言葉、ありがとう。

店主をはじめ一同、何とか味を守り続けようと思っとります・・・。

たとえお客さんがNさん一人だけになっても。

 

ありがとう。

 

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映画を観てくれた一人ひとりの、映画への返信のような感想を楽しみに、

上映に取り組んでいます。

映画への返信、送ってください。