2017年のつぶやき

  

「ユーモアって?」   2017年12月 

「奈緒ちゃんと」   2017年11月 

 「35年間」   2017年9月 

 「自分の映画だ!」   2017年8月 

 「疾走」   2017年7月 

「おわり、はじまる」   2017年6月 

「夜明け前」   2017年5月 

 「夢に泳げ」   2017年4月 

 「前のめり」   2017年3月 

「人生は祭だ!」   2017年2月 

「無我夢中」   2017年1月 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ユーモアって?」2017.12


「お百度参り」と称して、連日、映画館に足を運んでいる。11月は東京・新宿のK’sシネマ、12月に入ってからは横浜のジャック&ベティーで、新作『やさしくなあに〜奈緒ちゃんと家族の35年〜』を上映中だからね。

お客さんの入り具合を覗いて、一喜一憂し、上映後に劇場の扉の脇で、お礼を言ってチラシを配るだけのことの繰り返し。映画を観てくれた方に応援をお願いするのが、一番フェアーな気がして・・・。

 

「自分のことは自分が一番よくワカッテイナイ」が持論の私は、自分の映画のことも、自分が一番よくワカッテナイようで、完成し上映をはじめてから、一体この映画は何を語ろうとしているんだろう・・・と考えたりすることがシバシバある。

今回の『やさしくなあに』は、いつもに増してその傾向が強い。やはり、35年という時間を受け止める重さのようなものを、上映することであらためて感じているからかもしれない。

 

平成の歌姫・宇多田ヒカルが「ユーモアって、どうにも出来ない状況に唯一できること」と言ったらしい・・・いいこと言うなあ。

新聞の短いコラムに載っていた。

我が姪っ子のヒロイン・奈緒ちゃんのユーモラス振りは、これまでの「奈緒ちゃんシリーズ」の映画を観た人みんなが、口を揃えるところだ。

「まるで、寅さんの映画みたいですね・・・」と、時々言われたりする。今回の『やさしくなあに』も、奈緒ちゃんのユーモアセンス全開である。クスクス、ゲラゲラと、随所で笑わせてくれる。

でも、ふと思う。

奈緒ちゃんは「どうにも出来ない状況にいて」、ユーモア無しには生きて来れなかったのではないか・・・と。

 

「人前で、てんかんの発作を起こしてはいけない・・・」と、思い続けて来たに違いないし、「知的障がいを持っていることで迷惑をかけてはいけない」、と思ってもいただろう。奈緒ちゃんはひとときヒトトキを、緊張感を持って生きて来たんだ。でなければ、生き続けることが出来なかったのだから。

 

「ユーモアって、どうにも出来ない状況に唯一できること」

 

奈緒ちゃんが発し続けているそんな大切なメッセージに、35年間ほとんど気づかず撮っていた鈍感なドキュメンタリスト・・・私は、ほんとにつくづくヘボカントクだなあ。

このことは上映に寄り添うことで、はじめて気付くことが出来たひとつ。会場のお客さんが、笑いをこらえたり笑い出したりする姿を目の当たりにしているうちに、考えたことだ。

 

もちろん奈緒ちゃんに限らず、障がい者をはじめ、いわゆる社会的弱者と言われるひとりヒトリは誰しも皆、どうにも出来ない状況を、ハネ返し生きて行くために、巧まざるユーモアを力にして来たに違いない。

 

無我夢中に生きる。

私も又、ハタから見たら滑稽に見えるかもしれない「いのち」を生き切るようでありたい。そして、そんな「いのち」を描いたドキュメンタリーを、創り続けようと思う。

 

師走だ。

師ではない私は、走らずに、ゆっくり「お百度参り」を続けることにしよう。

 

 

 

「奈緒ちゃんと」2017.11


1973年、記録映画の編集者だった父、伊勢長之助が他界したその年の夏、

714日パリ祭の日に、姉の長女、姪っ子の奈緒ちゃんが生れた・・・

同じその年の夏、ひょんなことから私は映像の仕事に手を染めることになる。

親父への反発から、映像の仕事だけはやるまい、と心に決めていたのに、

親父が居なくなったら、あまり抵抗なく映像の仕事をやる気になった。

不思議なもんだ。

その時から44年、新作『やさしくなあに〜奈緒ちゃんと家族の35年〜』を完成させ、映像の仕事を始めた頃の記憶をひもとく機会があり、奈緒ちゃんと私の映画生活が同い歳であることに気付いた。

 

重いてんかんと知的障がいを合わせ持つ奈緒ちゃんは、幼い頃「長くは生きられない・・・」と医者に言われていた。

奈緒ちゃんと両親が「いのち」の火を必死に守っていた頃、私も映像の仕事を身につけるのに必死だった。大学を出てから職を転々としたあげく、プータローのような暮らしをしていた私は、映像をナリワイとして生きて行くんだと心に決め、その道をひたすらに歩みはじめていた。

 

両親や周りの方々の支えもあり、奈緒ちゃんは奇跡のように「いのち」の火を燃やし続けることが出来て、少しずつ元気になって行った。

私も又、映像の仕事でどうやら喰えるようになるのにけっこうな年月が必要だった。

そおして、奈緒ちゃんが8才の正月、奈緒ちゃんと家族を記録するドキュメンタリー映画を撮りはじめることになる。まさか35年も撮影を続けるとは思いもしなかったけど・・・

 

今、奈緒ちゃんは44才。奈緒ちゃんが生きて来た44年は、私が映像の仕事を生きて来た44年でもある。

44年か・・・奈緒ちゃん、よう頑張って生きたなあ。

私も映像の仕事をよく続けられたと思う。

無我夢中だった。

 

新作『やさしくなあに』の公開に合わせて各地の映画館で、伊勢真一監督作品特集上映をプログラムしてくれている。口の悪い仲間は、「追悼上映」みたいだと言うけど、44年、映像の仕事にしがみつき、自主製作で作品を創り続けて来たことへの、映画の神様からの御褒美のようなものかな?

 

特集上映のチラシに

  −奈緒ちゃんが生きたから

   たくさんの「いのち」が生きた。

   私の映画も生かされた「いのち」です。−

と書き添えた。

本当にそんな気がする。

 

自分が作品を創ってきたと言うよりも、何だか自然を超えた力のようなものに創らされてきた、という感じがいつもしている。

「他力本願」と言うのでしょうか・・・

そして、その他力の力の源近くに、奈緒ちゃんが居るような気がする。

「伊勢真一監督作品特集」なんて、まるで個展をやってもらうようで気恥ずかしいけど、これも、他力のなせる技かもしれない。

でも、誰も来なかったらどうしよう・・・

もしも誰も来なかったら、独りきりで映画館の暗闇に沈みこみ、スクリーンに向き合って、自分が映像と共に歩んで来た歳月を振り返るのも悪くないか。

 

奈緒ちゃんが生きた44年、私が生きた44年。

その旅は、まだまだ続いている。

行けるとこまで行くぞ、奈緒ちゃん!!

 

 

 

35年間」2017.9


35年前、あなたはどこで何をしていましたか?

 

私は仲間達と、35年前、一本のドキュメンタリー映画の撮影を始めました。てんかんと知的な障がいのある少女と、その家族の記録

「奈緒ちゃん」・・・

当時8歳の奈緒ちゃんは、私の姪っ子です。

 

それは、この夏に完成したばかりの最新作のクランクインでした。まさか35年も撮り続けることになるとは思ってもいませんでした。

その日の撮影は、奈緒ちゃん一家四人の正月のお宮参り。滅多に着物を着ることのないお母さん(私の姉)は、左前に着てしまった着物姿が映され、そのことを35年経った今も、とても気にしています。

奈緒ちゃん一家のことを正面から受け止めようと、お祈りのシーンを神様にお尻を向ける場所から撮影したことを、スタッフは、とても気にし続けました。

 

そおして、来る年も来る年も、横浜市の郊外にある奈緒ちゃんの家に通い続け、気がついたら35年の歳月が流れていました。

長くは生きられない、と幼い頃、医者に言われた奈緒ちゃんは、44歳・・・元気です。

誰かが「永遠の少女」と言ったように、奈緒ちゃんは撮影を始めたその頃と、ほとんど変わりません。変わらないのは、小鳥のさえずりのような愛らしい声と、その心です。「無垢」というのでしょうか・・・

 

未完成版の編集を観た奈緒ちゃんのお母さんは、

「奈緒はじめ、障がいを持った仲間達は生まれながらの優しさ・素直さを失うことなく持ち続けているように思います。それは神様が奈緒達に託した、大切なメッセージなんですね。きっと。」と呟いてました。

 

一年がかりの編集が上った時には、あまり意味もなく35年撮り続けてしまったことの恥じらいもあって、「自慢出来るのは35年間かけた映画というだけだから、大いにそのことをアピールして観てもらおう。」などとウワついたことを言ってたけど、1時間50分に及ぶ完成版を観るたびに、我ながら35年間の家族の記録というのは凄いことかもしれないと思うようになりました。35年の意味を探り、深めて行くのが、この映画の上映活動の使命のようなものなのだ、と。

 

映画は、スクリーンという「窓」に映る物語であると同時に、観客一人ひとりを映し出す「鏡」であるのだというのが私の持論です。

だとしたら、観る人一人ひとりの35年が、この映画を上映する度にスクリーンに蘇ることになります。

奈緒ちゃん一家同様にスクリーンの「鏡」に映し出されるそれぞれの物語は、「しあわせ」な時間ばかりではないかもしれません。けれども、他ならぬ自分が生きたという確かな手応えを、自分自身の物語を、それぞれが受け止めてもらえたら、と思います。

奈緒ちゃん一家は色々大変だなあ・・・と他人事で映画を受け止めるのではなく、でも私も大変だった・・・これからも大変かもしれないけど・・・と、自分事で受け止めてもらえたら、と。

そのことが、今という時代への、自分なりの眼差しの在り方に繋がるに違いありません。

 

タイトルは『やさしくなあに』、奈緒ちゃんが時々使う、奈緒ちゃん語から名付けさせてもらいました。

 

「やさしく」って何だろう・・・奈緒ちゃんから投げかけられた宿題は、なかなか難しい問いかけだけど、一人でも多くの人に映画を観に来てもらい、その宿題を持ち帰ってもらえたらと思うのです。

 

 

 

「自分の映画だ!」2017.8


ずっと自主製作・自主上映でドキュメンタリー映画を創って来た。

わかりやすく言うと、創りたいと思う映画をノースポンサーで自力で創り、上映したい人を募って各地で上映し、製作資金を回収する、というやり方だ。

そのやり方で20年以上自主映画を創り続けて来た。我ながら、よくやって来れたと思う。奇跡のようだ。もちろん、たんと借金もしているけどね・・・

 

で、新作『やさしくなあに〜奈緒ちゃんと家族の35年〜』の完成を機に、協賛を募ることにした。協賛とはカンパのこと。

何とか映画を完成させることは出来たけど、上映して行くための資金が足りない。上映活動が出来なければ、製作資金の回収が出来ない。製作資金が回収されなければ、万事休す・・・なのだ。

勝手に創ったんだから仕方ないだろう・・・と言われればそれまでだけど・・・

 

一口一円からのカンパだ。流行りの「クラウドファンディング」ではなく、素朴なやり方でお願いするのが、いせフィルムらしくていい、と仲間も言うし、自分もそう思って。

映画のエンドロールに「応援」というタイトルで名前を載せさせて頂くことだけが見返りのようなもの・・・あとは、これといって何のお返しも出来ない。

カンパを寄せてくれた一人ひとりに、私が書いているお礼状の一部を紹介しよう。

 

〜本当にありがとうございました。

35年間撮り続けた、姪っ子奈緒ちゃんとその家族の記録を、映画にしてもいいよ・・・と、背中を押してもらった気がします。プライベートフィルムのような映画ですが、奈緒ちゃんとその家族を撮ることは、私にとって、世界を見つめることに他ならないと信じて、撮影を続けて来ました。

 

カンパし、応援してくださった一人ひとりが、

「自分の映画だ!」と自慢出来るような映画でありたい、と思っています。〜

 

見返りは「自分の映画だ」と自慢してかまわない・・・ということ。自分が応援した映画ですよと、堂々と胸を張ってください、ということだ。

 

映画を「私有し合う」のだ。私が『やさしくなあに』を「自分の映画だ」と胸を張るのと同じように、カンパした誰もが、「自分の映画だ」と言い募る。

「共有」ではなく「私有し合う」こと、一人ひとりがそれぞれに、『やさしくなあに』を受け止め、それぞれの『やさしくなあに』を自慢し、「自分の映画だ」と胸を張るのだ。

 

まだ映画を観てないのにカンパすることなんか出来ない・・・というのがマトモな大人の感覚かな?

でも世の中にはマトモでない大人というか、私のようなヘボカントクを信じることが出来る大人もいる。

ありがたいような、申し訳ないような気持ちだ。

いせフィルムの事務所には、ここのところジワジワと、カンパの申し込みが届きはじめている。九月末までにカンパを申し出てくれた方々には、エンドロールに名前を入れさせてもらいます。「自分の映画だ」と言う人が何人集まるだろうか・・・

 

『やさしくなあに』は「自分の映画だ」、と声を上げたい人はぜひアクションを起こしてください。

胸を張れる映画であることを、ヘボですが、カントクが保証しますから・・・

 

(カンパの問合せ)いせフィルム ☎03-3406-9455

 

 

 

「疾走」2017.7


ほとんど目を瞑って走り続けて来たような気がする

・・・「疾走」という感じか。

失敗だらけの人生だから、「失走」だ、と言われるかもしれないけど。

で・・・新作が出来た。

 

『やさしくなあに〜奈緒ちゃんと家族の35年〜』

 

我が自主製作、自主上映の処女作『奈緒ちゃん』のその後をずっと撮り続けて、気がついたら35年の歳月が流れていた、というドキュメンタリー。気がついたら出来ていた、出来ちゃったドキュメンタリーだけど、傑作だ。こんな映画、誰にも創れない。

 

「長く生きられないかもしれない・・・」と医者に言われた、てんかんと知的な障がいを持つ姪っ子の奈緒ちゃん。死んでしまうかもしれない、奈緒ちゃんの元気な姿を記録にとどめておきたい、という気持ちで企画した。

元気でいてほしい、生きてほしい、という祈るような気持ちがあっての撮影だった。

 

奈緒ちゃんの8歳の正月に撮影は始まり、つい先日、

714日「パリ祭」のその日、奈緒ちゃんは元気に、44歳の誕生日を迎えることが出来た。お父さんは「奇跡だ」と言い、私の姉であるお母さんもニコニコ頷いていた。弟の記一くんは「よく生きたね・・・覚えてる?」と奈緒ちゃんに聴いていた。

奈緒ちゃんの「やさしくなあに」という呟き声が聴こえたような気がした。

35年間色々なことがあった・・・。そのほんの少しが映像に記録されたに過ぎないのだけれど。

 

撮影にも時間をかけたけど、編集仕上げも、大変な肉体労働だった。35年間に渡る膨大な撮影ラッシュは、1000時間を超えていた。そのラッシュの中から、編集のOK出しをして構成する作業のほとんどは、アタマを使うというよりも、カラダを使う仕事・・・

編集が一旦決まってからも何度も何度も手を入れたので、編集や録音のスタッフは「もういい加減にしてくれ・・・」と思ったに違いない。頂上に手がかかったと思ってから、登りきるまで、いつも以上に時間がかかった。映画の神様は、そう甘くないっつうことだ。でも、やっとのことで頂上に立った。フゥ〜〜・・・

 

奈緒ちゃんだけでなく、家族の35年もたくまずして記録された映像は、プライベートフィルムのようで、昭和から平成にかけての日本の家族を描いたドキュメンタリーだ。生きることの意味を問いかける、観ごたえのある映画になったと自負している。

映画を観る人は、奈緒ちゃん一家の35年を観ながら、

それぞれに自分の家族への思いを深めるにちがいない。

 

撮り始めた頃は、記録映画の編集者だった父と係わりのある映画人がスタッフだった。今回のチラシのメインヴィジュアルは、我が母が描いた幼い奈緒ちゃんの肖像画だ。音楽は、出演者でもある姉、奈緒ちゃんのお母さんのピアノと歌、かんとくの私も今回は題字を描くことになった。我が家族が中心になって創った姪っ子、奈緒ちゃん一家の物語。まさしく家族の映画だ。

 

さて、これからが勝負。

傑作を創っても、観てもらえなければアウトだからね。「疾走」でなく、「失走」になってしまう。

 

この秋からいよいよ上映がはじまります。

各地での自主上映も募っています。

応援よろしく!!

(問合せ・いせフィルム ☎03-3406-9455

 

 

 

「おわり、はじまる」2017.6


「いのち」に限りがあるように、

すべての物事には、おわりがある。

 

毎年夏、大阪・阿倍野で、私が言い出しっぺの一人として取り組んできた、ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》が、624日、25日の両日、15回目の開催をもって幕を閉じた。

もしも、映画祭も生きものであるとしたなら、私たちは「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」という「いのち」を精一杯生きたと思う。

 

映画祭のチラシに「ありがとう」という、お別れのメッセージを書いた。

そして「出来れば理由は聞かないでほしい。大切なことには理由が無いのだ。

映画が好きになったり、人を好きになったりすることに、いろいろ理由が無いように・・・」と添えた。

理由が無い、と言うよりも、理由がわからないのだ。

自分のことは、自分が一番よくワカラナイ・・・

映画祭をはじめた15年前も、自主製作で映画を創りはじめた35年前も「自分のことは、自分が一番よくワカラナイ」とうことは全く変わらない。

困ったもんだ。

だから、映画を創り続けているのかもしれないけど。

 

22年前、「奈緒ちゃん」を完成させてから、自主上映で映画を観てもらう活動をはじめた。

ナリワイの映画を自称し、芸術も社会的なメッセージもひけらかさない、職人的な映像の創り手こそ好ましい、と言っていた自分が、まさか自主製作・自主上映で映画を創るようになるとは、思ってもいなかったな。まして「映画祭」のようなことに手を染めて、リーダー的な役割を果たすようになるなんて、想像だにしなかった。

気がついたら、わけもわからずその道を疾走していた、というのが正直なところだ。

 

映画祭をはじめてからの15年間は、どんなだったかと言えば・・・やっぱり無我夢中だったと、今思う。

知らぬ間に歳だけは喰ったので、スタッフの最年長になり、映像業界のなかでもベテランの領域にいるらしいので、時にはわかったようなフリをしていることもあったかもしれないが、ただただ自分なりの映画を創り、自分なりに観てもらう、という無手勝流映画創りの延長線上に我等が映画祭もあったのだと思う。

そこらにある立派な映画祭とは、比べものになるわけがない。それでけっこうだ。

 

世のため人のためにではなく、自分が創りたいと思うから映画を創り、自分がやりたいと思うから映画祭をやって来た。中心を荷った何人かの仲間達も、思いはかわらないだろう・・・「ヤル時はヤルヨ!」だ。

 

おわりは、はじまりでもある。

きっと、何かがはじまるのだ・・・とも思う。

映画祭の最終日、最後の上映作品に、35年間撮り続けた『奈緒ちゃん』の続編、『やさしくなあに〜奈緒ちゃんと家族の35年〜』の編集途上の未完成バージョンをプログラムし、観てもらった。

私の「おわり、はじまる」は新作『やさしくなあに』の完成であり上映である。

そして、35年間のその又続きを撮り続けること、自分が創らないわけにはいかない、と思う映画をこれからも無我夢中に、無手勝流で、創り続けることだ。

「自分のことは自分が一番よくワカラナイ・・・」

その道を、ただひたすらに疾走するのだ。

 

※新作『やさしくなあに〜奈緒ちゃんと家族の35年〜』完成上映会(予約優先)いせフィルム 03-3406-9455

729日(土)①11時〜 ②1340分〜

           日比谷図書文化館B1Fホール

 

 

「夜明け前」2017.5


未明(あさまだき)・・・

東の空が群青から目覚めて行くまでの、ほんのひとときが好きだ。くり返し、くり返し、撮影して来た。

 

『夜明け前の子どもたち』というドキュメンタリー映画がある。“夜明け前”がたまらなく好きな私は、この1968年製作の映画も、やはり好きだ。今年に入ってから、もう5回観ている。横浜の大倉山映画祭や、東京・下高井戸シネマでの「優れたドキュメンタリーを観る会」の特集上映でも上映され、そこでも観た。両会場とも旧作にもかかわらず、満員だった。

 

映画『夜明け前の子どもたち』は「この子らを世の光に」という考えに立ち、戦後の障がい者福祉をリードして来た、糸賀一雄氏らが立ち上げた滋賀県にある「びわこ学園」を舞台にした、療育記録映画だ。

50年前のドキュメンタリー映画だが少しも古さを感じさせない内容は、基本的な理念がしっかりしていることと同時に、スタッフの力量、取り分けカメラマンの眼差しの確かさによる説得力のある映像描写に支えられていると思う。カメラマンは瀬川順一さん、『夜明け前の子どもたち』を撮影した15年後に、私の『奈緒ちゃん』を撮ったカメラマンだ。

私が『夜明け前の子どもたち』に強く魅かれるのは、その眼差しに『奈緒ちゃん』の前史を観ようとしているからかもしれない。12年間に及ぶ『奈緒ちゃん』の撮影をしながら、『夜明け前の子どもたち』について、事あるごとに瀬川さんから聞かされ続けた・・・

 

人間の本当の自由と平等は、障がいのある人々を光としてお互いに認め合うことで、初めて成り立つ・・・という「この子らを世の光に」という視点は、「この子らに」世の光を当てるのではなく、「この子らを」こそ光と見て受け止めよう、という画期的な価値の転換だった。

 

ナレーションは語る、

「しかし、あえて言おう〜この子どもたちこそ、私たちみんなの発達の道すじの、たえず一歩前を歩き、進む導き手なのだ。障がいのある子どもたちが正しく保障される時、社会全体が健康になって行く体質が出来るのだ。」

私は、映画『奈緒ちゃん』の背景にある考え方は、『夜明け前の子どもたち』の延長線上にあると思っている。二本の映画を撮影した、今は亡き瀬川さんは、深く頷いてくれるだろうか・・・

 

『奈緒ちゃん』のその後をずっと撮り続けてきた記録をまとめようと思い立ち、もう一年に成る。1983年の撮影開始から35年間の記録だから、編集はほとんど肉体労働と言っていいような、大変な作業だった。

けれども、ようやく映画のカタチが見え始めた。

 

幼い頃、医者に「長くは生きられない」と言われた奈緒ちゃんは、この7月に44才に成る。その44才の誕生日を目標に新作を発表しようと思っている。

タイトルは『やさしくなあに〜奈緒ちゃんと家族の35年〜』独特の奈緒ちゃん語のひとつ、「やさしくなあに」をタイトルに使わせてもらった。

 

映画『奈緒ちゃん』の前史、『夜明け前の子どもたち』(1968年製作)、『奈緒ちゃん』(1995年製作)、そして『やさしくなあに〜奈緒ちゃんと家族の35年〜』(2017年製作・未完成版)を、今年のヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》(624日、25日、大阪・阿倍野区民センター)で、上映の予定だ。

私の原点であり、映画祭の原点でもある作品群を上映し、15年間続いた映画祭の幕を閉じようと思う。

ぜひ足を運んで観てほしい。

 

未明・・・夜明け前

くり返し、くり返し。そのひとときを生きること。

 

「夢に泳げ」2017.4


街の桜が散り終わる頃、郊外や山里に咲きはじめる山桜が好きだ。

群れずにひっそりと咲く姿がいいと思う。

新緑の浅い緑の中にポツンポツンと、

ここにいるよ、今年も約束通りに花をつけたよ、

と静かに語りかけてくる感じ・・・

 

四国に細谷先生(小児科医・俳人)と共に巡業に行った。毎年のように自主上映に取り組んでくれる高松にある保育園で、映画『大丈夫。』を上映する旅。

二人のコンビで、上映とトークをもう何ヶ所でやっただろう。よほどのことが無い限り事前打合せは無し、行き当りバッタリと言うかフレキシブルと言うのか、涙あり笑いあり怒りもありの、雑談のようなトークを、各地で楽しんで来た。お喋りしてる当人達が面白くなければ、聴いてる人たちに伝わらないものね。

時には失敗も無くはないけど・・・

 

失敗と言うわけではないけど、四国巡業の前のトークは辛かった。

二月、東京・品川でのチャイルドライン主催の映画『風のかたち』の上映後、細谷先生と私とのトークが予定されていた。上映の直前に私の携帯に訃報が入った・・・

小児がんの子どもたちのための『風のかたち』キャンプを細谷先生と共に荷ったリーダーの一人、石本浩市医師がその日の朝亡くなられた、という知らせだった。石本先生は、奥様の認知症との日々を描いた映画『妻の病』の主人公としてもおつき合い頂いた関係、同世代と言うこともあり仲間というか、いい友達だった。

さすがに、細谷先生も私も動揺して言葉が無かった。

 

上映された『風のかたち』の中で、石本先生が小児がんを乗り越えようともがく子どもたちに「君たちだけでなくだれもがみんな何かしら悩みを抱えて生きているんだよ・・・」と励ますシーンがある。その言葉を聴いて、会場の後部座席で映画を観ていた細谷先生が、たまらなくなって席を立たれた・・・

その日のトークは、泣き虫を自認する二人にとっては辛過ぎる時間だった。ハチャメチャなお喋りになってしまったに違いない・・・赦してほしい。

何事も無かったように振る舞うのがプロかもしれない。私も細谷先生もアマチュアの甘ちゃんなんだ、きっと。

 

高松での四国巡業の前日に、高知・南国市の石本先生のお参りをしようということになり、細谷先生と共に実家に寄らせてもらい手を合わせた。

次の日、保育園での『大丈夫。』上映、私はちょっとシンミリした気分のままに映画を観た。小児がんに倒れ、還ることが叶わなかった子どもたちの生前の姿に、細谷先生の俳句を添えた構成の映画を観て、いつも以上に映画の中に、子どもたちの「いのち」を強く感じた。

映画の中で、生き生きと生きる「いのち」を・・・

 

<目が見えず、耳も聴こえず寝たきりの君に>

   鯉のぼり

   しなのたかしの 

   夢に泳げ

 

細谷先生が入院中だった患者さんの一人、しなのたかし君に贈った俳句だ。

 

しなのたかし君の夢の中で泳ぐ鯉のぼりのように、

『大丈夫。』に出演してくれた、今はもう居ない子どもたちは、映画の中で生き続ける・・・

石本先生も又、映画『風のかたち』『妻の病』の中で生き続け、私達にかけがえのない「いのち」のメッセージを、送り続けてくれるのだ。

 

上映活動を粘り強く続けようと思う。

お力添えよろしくお願いします。

  

「前のめり」2017.3

 

まるで大きな雪の帽子をかぶったようなコブシの樹が、夜道に佇んでいた。

いつもの通り路なのに、こんな所にコブシの樹があったんだ・・・真っ白い花々が闇の中に浮かんで、しばらくボー然と見上げていた。

 

引き桜とも呼ばれるコブシの花を見つけると、

あぁ、春だな・・・と思う。

 

ガキの頃から世話になりっぱなしだった従兄弟が逝ってしまった。誰彼なく世話に成りながらここまで生きてきたので、そこいら中、みんなに世話に成りっぱなしの人生なのだ。

依頼心が強い性格だからな。

「ナリワイ」でいえば、そもそも自主製作・自主上映、という、わかったようでよくわからない在り方も、誰彼なく世話に成りながら映画を創らせてもらうシステムに違いない。私の映画創りは、依頼心のカタマリのようなものか。

 

今は、新作『いのちのかたち −画家・絵本作家 いせひでこ−』の上映に、前のめりになって取り組みながら、次回作の編集にも、前のめりになっている。

相変わらず、誰彼なく世話に成りながらね。

そおいう甘ったれたことではいけない、もっと「自立」しなさい、と怒られそうだけど、ゴメンナサイと頭を下げるしかない。

 

前のめりになってる上映活動が好調かと言えば、そうでもない。ここのところは、地方の映画館での上映が中心だけど、どうしたらお客さんが来てくれるだろう、と考えない日は無いような入り具合だ。観た人の反応はスコブルいいんだけど、なかなか観てもらえないのだ。

映画館での上映が各地の自主上映へと継がっていけば、ありがたい、と思っているのだが・・・

自主製作の制作資金を回収しなければ、次の作品が創れない、という以前に、生活が立ち行かなくなるのだから。自転車操業ならぬ一輪車操業だ。ここが踏ん張りどころ・・・呑気そうに見えるかもしれないけど、一人でも多くの人に観てもらい、一ヶ所でも多く自主上映を開催してもらうことの、真剣勝負なのだ。

 

次回作の編集にも、前のめりになっている。

私の場合、プロデューサーも兼ねているけど、映画創りの気持ちの重心は、あくまでも創り手(かんとく)だ。次回作は35年に及ぶ長期撮影、膨大な映像からの編集作業なので、ほとんど肉体労働のように、編集室でウンウン唸り声を上げて苦しんでいる。もちろん楽しみでもあるんだけどね。こればっかりは、誰かに代わってもらうことは出来ない。

まだまだ陣痛は来ないけど、しばらくは編集室での産みの苦しみの日々が続くのだ。

 

上映や編集に前のめりになっているだけでなく、私は、生きること自体に前のめりになっているのかもしれないな。生きることに、気負いがあり過ぎるのだ。

もう少し余裕を持って、背筋を伸ばして日々を生きることが出来たらなあ・・・

無我夢中に駆け抜けてきて、無我夢中のままくたばることこそを、ヨシとしてきたけど。

 

たとえば、こぶしの樹が春に成ると約束通り、黙って白い花を咲かせるように、

気負いなく「いのち」であるような人生を生きれたなら。

 

けれども前のめりが身についてしまった私は、どんなにみっともなくとも、前のめりのまま生きて、つんのめるようにくたばるしかないのだろう。

 

つんのめるように、創り続けるしかないのだ。

 

 

 

「人生は祭だ!」2017.2


年長の友人、宮本晧司さんが旅立たれた。

宮本さんは、もう二十年近く前に埼玉で映画祭を始めた時の仲間、リーダーのような存在だった。出版社勤めの宮本さん、ノンフィクションライターの柳原和子さん、映像作家の渡辺哲也さん、そして私、の四人が中心になっての二日間だけの小さなドキュメンタリー映画祭は、その後、何ヶ所かで私が始めた映画祭のきっかけになった「お祭り」で、七年間程続いたと思う。

 

私以外のメンバーはみんな、今はもういない。あっちの世界で、又、映画祭をやっているかもしれない。

 

「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」

「はなまき映像祭」

「大倉山ドキュメンタリー映画祭」

「ヒューマンドキュメンタリー映画館 日比谷」

私は、今は四ヶ所で、映画祭のようなものをそれぞれ各地の仲間達とやっている。

自主製作・自主上映するナリワイの合い間に、というか、各地での映画祭の合い間に、自主製作・自主上映の活動をやっている、という感じかなあ・・・

私がかかわっている映画祭は、東京国際映画祭や山形ドキュメンタリー映画祭のような有名な映画祭ではないので、知る人ぞ知るだけど、私にとっては大切な、年に何度かの「お祭り」、お祭り好きだから。

 

小さな映画祭とはいえ、続けて行くにはなかなか大変、コストもかかるしね。スタッフは基本的にボランティアだから、それぞれ自分の仕事をかかえながら時間をやりくりし、準備をすすめ開催にこぎつける。時には意見の違いがあるのは当然のことだから、いつもそれを調整しながらの運営だ。

私はどの映画祭も、この指止まれ!を言って映画祭を始めた言い出しっぺのひとりだから、シンドイことがあってもニコニコ笑ってなきゃいけないしね・・・

でも、色んな出逢いがあって楽しいことこの上ないから、やめられない。

「遊びをせんとや生まれけむ・・・」(梁塵秘抄)

と言った昔の人がいたらしいけど、本当にそう思うな。そうして生き切って、くたばりたい。

 

四つの映画祭のひとつ、大阪・阿倍野で続けてきた「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」は、今年で15回目の開催になる。そして今年が最終回になる。映画祭のホームページに書いた私のメッセージを引用します。

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みんなに支えられ続けて来た私たちの「映画祭」は

今年で幕を降ろします。

お世話になりました。

本当にありがとうございました。

 

出来れば理由は聞かないで欲しい。

大切なことには、理由がないのだ。

映画が好きになったり、人を好きになったりすることに、

いちいち理由が無いように。

「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」は、今年で終了します。

 

支えてくださったみなさんに

「ありがとう」の気持ちで

15年目の「ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》」を開催したいと思います。

 

笑顔で集まりましょう。

そしておおいに別れを惜しみましょう。

祈再会。

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始まりがあり終わりがある。

「いのち」には限りがあるのだ。

 

「はなまき映像祭」は今年で17年目になるけど、まだまだ続けるつもり。

「ヒューマンドキュメンタリー映画館 日比谷」は、この5月にもう26回目の開催になるけど、これも続けて行きたい。

「行けることまで行くんだ」という精神で生きてるからね・・・「ヤル時はヤルよ」だ。

 

一番近々の映画祭は、毎年、早春に開催される「大倉山ドキュメンタリー映画祭」。大倉山記念館というとても素敵な所が横浜にあり、その建物と庭に惚れこんで始めた映画祭だ。

丘の上にある大倉山記念館まで行くのがけっこう難儀だけど、白い息を吐きながら坂道を登り、小さなホールで、ドキュメンタリー映画を観るヒトトキは「至福」だ。

映画を観るというのは体験だからね。いつ、どこで、だれと、観た、という記憶が映画を包みこみ、映画体験として心の中で一人ひとりの物語となるのだ・・・

オーバーに聞こえるかもしれないが、「生きていてよかった」と感じるくらいに。

 

「人生は祭だ!」と、巨匠フェデリコ・フェリーニは言ったらしい。フェリーニのような映画は、とてもとても創れないヘボカントク(私)だが、「人生は祭だ!」という一言に、深く共感する。

 

祭りのように映画を創り・・・

祭りのように映画を観て・・・

 

「映画祭」・・・出逢い、出逢いなおすこと。

いつかどこかの「お祭り」で逢えますように。

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2017325日(土)〜26日(日)

10回 大倉山ドキュメンタリー映画祭 

神奈川・横浜市大倉山記念館

http://o-kurayama.jugem.jp

 

2017514日(日)

26回 ヒューマンドキュメンタリー映画館 日比谷

東京・日比谷図書文化館 

https://www.isefilm.com/ヒューマンドキュメンタリー映画館-日比谷-1/

 

2017624日(土)〜25日(日)

ヒューマンドキュメンタリー映画祭《阿倍野》2017 

大阪・阿倍野区民センター

http://hdff.jp

 

20179月(詳細未定)

はなまき映像祭 

岩手(花巻)・ブドリ舎

 

 

 

 

「無我夢中」2017.1

 

父は正月元旦に死んだ。60才だった。

年末年始、私は大晦日に父の墓参りをして、命日に当たる元旦は、独りでボンヤリすることにしている。

今年の元旦は、ずっと撮り続けている障がいのある姪っ子、奈緒ちゃんの撮影だった・・・もう36年目に成る。奈緒ちゃんは、父が死んだ年の夏に生まれたから、奈緒ちゃんの歳を数えると父が逝ってしまってからの歳月がわかる。奈緒ちゃんは今年44才・・・と言うことは、父が居なくなってもう44年に成るということだ。

 

父、伊勢長之助は記録映画の構成・編集者として戦前、戦中、戦後を生きた。中学生の頃から、9.5ミリのフィルムで映画を創り、大学では映研で、記録映画の父と言われるエイゼンシュテイン(ロシア)の作品を上映していた、というからバリバリの映画青年だったのだ。

東宝の前身、PCLに入社し(黒澤明なども同僚だった)記録映画の道を自ら、選んだ。戦後、PR映画で売れっ子になった父は「長さん!」と呼ばれ、知る人ぞ知る職人映画人として、地味ながらいい仕事をしたと思う。

 

私は、人並みに映画は好きだったが、父への反発もあり、思春期の頃から映画の仕事、映画人に対して憎しみのような感情を抱いていた。「映画は一人前の大人がやることじゃない・・・」などと、生意気を言っていた。

父の仕事、映画の仕事だけはやるまいと思っていた私が、映画の仕事に手を染めるようになったのは、父の死後、間もなくだった。ふとしたきっかけから、映画の仕事、それも父と同じ記録映画の仕事をやることになったら、これが面白いことこの上なく、天職だとさえ思った。

「無我夢中」と言うけど、その言葉通りに、この道を突っ走ってきたように思う。父も又、「無我夢中」に40年に及ぶ映画人生を送って来たのに違いない。

父と私の、数少ない共通点を探すとすれば、「無我夢中」ということかな・・・

 

暮らしを共にしなかったこともあり、父が一体、何を考え生きて来たかを私はほとんど知らない。映画の仕事をやるようになって、父のことをモーレツに知りたくなり、戦前、戦中の父の仕事、特に戦時中、インドネシアでの国策映画創りのことを調べ始めた。父は戦時下のジャワ(インドネシア)で、大東亜共栄圏の考えの下、アジアを植民地化し日本に統合するためのプロパガンダ映画を製作する任務を、軍の報道班員として担っていた。

 

調査を始めて数年後、父が働いた撮影所が現存すると聞き、ジャカルタを訪ね、父達が製作した当時の国策映画が保管されていると聞き、オランダを訪れた。戦時中の父とその仕事を追ったプライベートドキュメンタリーは今も製作中、未完成で、クタバルわけにはいかない。こればっかりは創らないわけにはいかないのだ。憎しみと言うか、愛情と言うか、私を映画に導いてくれた父への、恩返しのようなものなのだから。

 

ジャカルタの撮影所で、父は、「無我夢中」になって国策映画を創っていたにちがいない。もしかしたら、父の生涯の中でその時代とその撮影所こそが、最もしあわせなひと時、ユートピアのような場所であったのかもしれない。そんな風に思うことがある。

 

「無我夢中」になって、記録映画を創り続けてきた父と子の物語は、今しばらくお待ちいただくとして、父が手がけたジャワ時代の「幻のフィルム」の一部だけでも観てもらいたい、と思って128日(土)東京・日比谷図書文化館地下一階での、第25回ヒュマンドキュメンタリー映画館 日比谷で、上映しようと思う。

 

私事ながら、129日(日)は私の誕生日だ。誕生祝いだと思って観に来て欲しい。お待ちしています。

 

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